深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

はじめに「場」があった。


昔、みんながいたところ。


この感覚、自分の中にもあるのが感じられる。自分もケータイ以前文化の人間だし、中学・高校・大学とそれぞれにそういった場所を実際の生活の中で持っていた。
そして、社会人になった後は NIFTY-Serve のフォーラムがその「場」の役割を果たしていた。当時のネットワークサービスは、まず場が用意されていて、そこに人が集まってわいわいと話をする、という形のものであった。NIFTYに限らず、PC-VANやASCII-NETその他のサービスや、無数の草の根BBS。その中で人同士が繋がりを得て、フォーラムそのものとは別の形のコミュニティができることはあったけれど、基本は「○○フォーラムの誰それ」だった。


今、ネットワーク上にあるのは「場」ではなく、個人ひとりひとり。その個人の間に橋を渡すようにして、コミュニティができている。面積をもつ「場」ではなく、無数の点のような「島」とそれを繋ぐ線でできている。
SNSやIM、今流行っているtwitterなどはそうだし、一見自分の「場」を作っているように見えるブログや個人のサイトも、ひとりの人間が自分のために作った「島」であることには変わりない。
現在、「場」として存在しているのは、主に、2chなどのような掲示板類であろう。しかし、そこでは互いの顔は見えない。コミュニティというには茫漠としすぎているように思える。


どこにも所属していない、どこにでも普遍的に所属している、そんな不安で不安定な自分。
身軽で自由であるけれども、ひとりの個人としての自分から繋がりを作らなければ繋がることができない、繋がっていないも同然である。
自分ひとりで「島」となれるような自意識を強くもたないと安定できない時代。気を抜くとあっという間に橋が落ち、飛行場が荒れ、桟橋が腐り、孤島となってしまう。他の「島」との連絡手段を常に保持するか、そうでなければ完全に自給自足をするしかない。