深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

名付け=型はめ

今してることもそうだが、自分の感じたことや思った意見を言葉にしようとするとき、その過程で、すでに出来上がっている型に押し込めているのではないだろうか、と思うときがある。
最初から論理が出来上がっていることはない。大抵の場合、最初はもにょっとした何か、その時点ではまだ言葉になっていない、感情やら感覚やら、そういう存在はするけれど不定形のものである。
次の段階で、それは何なのだろうか、と考えてみる。とりあえず、賛成なのか反対なのか、共感なのか反発なのか。それ以外の何かなのか。
そこで、どうやらこれは○○だ、と思った時点で、その不定形の感覚は、○○という枠にはめられる。
不定形の感覚に○○という名前を与える、名付けるという行為でもある。


名付けられたところから、徐々に話が拡がっていく。
なぜ○○と思ったのか、それは△△だからかな。
でも、そもそも△△って、それでいいのだろうか。△△以外にも□□という根拠もあるかもしれない。△△という根拠自体が違っているのかもしれない。△△とはなんだろう。
今度は△△に名をつける。
同時に、○○にまつわる△△以外の部分を切り捨てる。□□については別の取り上げ方をすることもあるけれど、それでも、△△と□□以外の部分は、結局切り捨てている。


こうして、ひとつひとつ、名前をつけていく。
名前をつけた途端に、不定形の感覚は、不定形そのままではなく、その名前のものに変貌する。形も境界線も不明だったものが、明確な形と境界線を与えられ、ひとつの独立したものになる。その瞬間、最初の不定形とは明らかに異なるものになっている。
つまり、どんなに言葉を尽くしても、自分が感じたそのままを言葉、文章にすることは、不可能だ。


さまざまなこと、さまざまな思いを人に伝えようとして、ありとあらゆる言葉を尽くせば尽くすほど、もともと自分が心に持ったものとはかけ離れてゆき、もともとの思いとはかなり異なった、別の内容が生まれてしまうような気がする。
しかし、それが分かっていても、言葉を尽くす以外に、伝える方法がない。
できるだけ、もとの思いに近い形をつくるように、あれこれ言葉を選び、並べてみる。時には饒舌に、時にはシンプルに。


その結果、やっぱり最初に生まれた思いと違う(と自分は感じる)ものができてしまうことも多いのだけれど、それはそれでひとつの作品。
そして、できあがった文章を他人が読んで、何を感じるか、何を受け取るかも、人それぞれ。猫をスケッチしたつもりだったのに、狸に見えてしまうこともある。それは猫だったんだよー、と伝え直すこともあるし、そうか狸に見えたか、はははー自分も修行が足りないなー、と思うこともあったり。


本当は、自分の中に生まれたこれを、そのまま伝えたいのに。
それができた人間は、たぶん、まだ、人間史上一人も存在しない。
だからこそ、言葉を綴る気も出てこようってもの。