深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

衝突したい欲求

「ヘタレ系DのBlog」さんの記事http://www.ecom.dm.u-tokai.ac.jp/~kakizaki/mt/archives/2007/01/post_225.phpより先日の記事へTBをいただいた。
直接の返事にはなっていないが、読んでみて思ったこと。

議論は重要なことである.
自分ではない誰かと意識の交換や知識の衝突をさせるためには,議論が必要だ.
他人の世界と自分の世界を衝突させる行為と言ってもいい.
そうしなくては,分かり合えないし,自分も育たない.

そうなのだ。議論したい、衝突したい、という欲求がどこかにある。
ブログに何かを書くとき、「自分もそう思う」という意見がつくこともありがたいけれど、「自分はそうは思わない」という意見がつくことをどこかで心待ちにしている。異論をぶつけられることによって、自分自身がまた賦活化される。
異論をぶつけられることは怖いことでもあるけれど、その怖さ以上に、異論をぶつけられた時の高揚感が魅力的である。こうなんか、バーンとぶつかりたい。火花を散らしたい。燃えたい(萌えたいの誤りではない)。
まあ、いつもいつも異論ばかりではたぶん凹んでしまうのが関の山なんだろうけど。そう分かっていても衝突したくなるのは、どういう心理なのか。


ブログと日記、あるいは日記的ブログを使い分けているところは、この方と私は手法がかなり近いかも。
私が過去にやっていたブログはそういう日記的な使い方(日常のこと、育児日記、ネタの紹介など)もカテゴリ分けして書いていたけれど、やはり想定する読み手が大きく異なる場合は、カテゴリだけでなくはっきり場所を分けて書いてしまうほうが、自分も書きやすいということに気がついた。書き手側のモード切り換え(自分の頭の中での)もしやすい。


誰かや何かと心置きなくぶつかるためには、できるだけ自分が抽象的な存在になるほうがいい気がするんだ。
そういうことはあるかもしれない。じゃなくて、自分の感覚としては確かにある。
ちょっと前にはてなブックマークで出ていた、文章から人格を読み取るか読み取らないか、のちょうど逆のような感じである。文章に積極的に人格を投入するかしないか。
嬉しいことを書くと自分から人格を見せてしまうような感じがするからね。しかもいい方に(ポジティブなネタだから)。ぶつかりたい、とか考えている身からすると、フェアじゃない*1というのはある。

*1:自分自身が。読み手側には関係しない。