深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

子どもによって「生きる存在」から「死に行く存在」に変わる

匿名ダイアリーは初めてなので、うまく使えているかどうかは不明なのです..


35歳の男性、妻一人子一人(文中より)の人の文章。


後半については、特に女性の立場からすると異論のあることもあるので、記事全体についてはなんとも言えないのだが、次に引用する段落については、同感であった。

率直に言えば、同時に子供が生まれてしばらく経ち、自分自身の部分的な死を少し意識しました。それは、損なわれている自分の生活の部分が死んだなと思ったのです。もし一人だったら、いろいろやりたいことはある。けど、自分が大人になるために、両親がしてくれたことを考えると、子供にも同じ事をしてやらなければいけないなあと言う気持ちが、自分の一部分を殺すのです。そして、徐々に人間は死んでいくんだなあと思いました。でも、いずれ死にゆくわけですから、そのときに自分が親としていくつかの生命を遺していけるというのは、それなりに価値がある事だなと思います。


子どもをもつことによって、自分自身の一部の死、緩徐な死を意識する。
自分自身が最近感じていたこととぴったり重なった。


若いうちは、「生きる」ということは、自分自身がこうありたい、こうしたいということを具現することと重なっていて、「生きる」目的というものを割合にはっきりと脳裏に描くことができる。夢をもつ、というほど大したことでなくてもいい。享楽的な目的や、悪どい目的をもつこともあるだろう。
しかし、子どもができると、「生きる」目的の方向が変わる。というより、外的に変えられる。子ども自身によって。子どもは、親に対し「お前の『生きる目的』は私のために使え」と強制する存在なのである。そしてそれは否定されるべきではない、当然のことでもある。


そのことに気づいたとき、私は自分が最早「生きる存在」ではなく「死に行く存在」になっていることにも気がついた。
実は、人間に限らず生物は、生まれた瞬間から必ず死に向かって決まったベクトルで進んでいるものだ。しかし、若い時は、そのことには通常思い至らない。思い至ったとしても、それ以上に、今現在生物として上り坂である自分の可能性のほうに興味が強い。
やがて年をとり、自分がいつしか生の下り坂に差しかかり、今ある自分以上の何者かになることを考えることが難しくなると、やっと緩やかに死に向かうベクトルが見えてくる。
子どもをもつということは、そのターニングポイントとして、大きな役割をもちうる。
子どもからの「おまえ(親)が生きるのは自分(子)のためだ」というメッセージを受けとると、最初はそれを受け入れがたく、心理的に抵抗し、あるいは場合によっては物理的にも抵抗を試みることがある。しかし、子どもの存在が消失しない限り、そのメッセージは送られ続ける。大多数の親子の場合、親はやがてそのメッセージに屈する。*1
屈した時、親は、自分が既に人生の下り坂にいること、自分自身が上っていくためではなく子が上っていくためにその力を使うことに納得すべきであることも同時に心に得るのだ。


自分が下り坂にいると悟ったとき、子育ては楽しくなる。自分の衰えに気がついたとき、目の前にこれから人生を拡げてゆこう、上っていこうとする存在がいることは、希望でもあり、延長戦みたいなものでもある。
逆に言えば、自分がまだこれから、と思っている時に、子どもがいるのは、自分にとって邪魔でしかないかもしれない。特に女性にとっては、大きな問題だろうと思う。

*1:屈しない場合、不幸な転機をたどることになるだろう。虐待、ネグレクト、子捨て、etc.