深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

覚え書き

  • 子育てに唯一の正解はない。同じ誰かにとって、AでもBでもZでも、αでも1でもおおむねうまくいくだろう、ということはしばしばある。
  • 明らかな間違いというものはありそうには思うが、ある誰かにとっては「明らかな間違い」であることが別の誰かにとっては「全然間違ってない」場合もある。
  • 頭で考えて子育てするのは大事なことだが、頭で子育てして行き詰まったら、頭を使わないところに立ち戻ることも大事。
  • なにしろ相手は人間なので、他人が自分の思うようにならないと同様、まるっきり思うようになどならない。子どもがどういう人間になるかは複合要因なので、結果だけを見て子育てがうまくいったかいかないかを気にしてもあまり意味はない。
  • よそはよそ。うちはうち。あのひとはあのひと。わたしはわたし。
  • 自分の感覚を育てよう。自分の感覚も信じるに足る支えとできるように。

雄鶏社の自己破産

この週末、驚いたニュースは、やっぱりこれ。
新文化-出版業界紙-ニュースフラッシュ 雄鶏社、4月17日東京地裁に自己破産を申請
雄鶏社は女性向け実用書の出版社で、歴史もかなりあるので、冗談でなく、子どものころからお世話になった。というより、今は日本ヴォーグ社なども大手だけど、昔はあまりそういう印象じゃなくて、めぼしい手芸本買うとたいてい雄鶏社だったりして。特に若いころレース編みに一時期ハマっていたから、買う本買う本、雄鶏社だったりした。
出版社で選んで本を買うことはないけど、最近でも、あ、これいいな、欲しいなと思ってひょっと買った本が雄鶏社だったりということはままあり、本棚を見るとかなり雄鶏社の本があって、あれ、これも? こっちも? という感じ。先月も2冊ほど、迷った末に買ったばかり。
今思えば、買っておいてよかったなあ。まさか1ヶ月もたたずにこんなことになるとは思いもしなかった。


最初に噂を見たのは土曜の2chのハンドクラフト板で、「有名なハンクラ作家さんや出版関係者のブログで、雄鶏社倒産の話が出ている!」というもの。土曜なので経済関係ニュースは停止していて、ソースは出ない。しかし、話を出しているハンクラ作家さんたちも有名な人だし、公式のブログで書いていて、ガセをそうそう流すような人ではない。
どうも本当っぽいね……という雰囲気の中、上記のニュースが出て、確定した。


さらにこの話題には前哨戦がある。
同じくハンクラ板の刺繍スレにて、「はじめてのドロンワーク」という本の話題がすこし前に出ていた。ドロンワークの基礎的な本、ということで期待されていたのだが、雄鶏社の4月新刊に出ていたこの本が、なかなか書店に出ない。それどころか、他の4月の新刊もすべて、いつまでたっても書店に並ばないし、サイトの新着情報の更新も行われなくて、本の詳細や発売日の掲載も行われない。どうなってるんだろう、早く見てみたいのに……という話題の出る中、今回の倒産となった。
4月新刊の中には、本を作った方が自身のブログに表紙写真を掲載しているものもあって、もう刷り上がっていたのに、という状況で日の目を見ずに消えていく本もあったよう。残念だろうな。


今は、各書店から雄鶏社の本が消えていく話や、その前にほしかった本を買いにいかなくちゃ、ネット書店なら在庫返品しないから間に合うぞ、とりあえず書店に走るぞ、ってな話になっている。
もともと手芸本は絶版が早く、これだ、と思う本があったら一期一会と思え、というのが原則だけど、やはりお財布の中身とも相談しなくちゃだし、この作品はいいけど他のページはいらんな……という場合もあったりして、そうそう即決できるものでもない。


ニュースによれば自己破産ということで、倒産という話だけのときは、民事再生法会社更生法の申請だったらいいけど、と思っていた希望もくずれた。もう雄鶏社の新刊本を手にとることはないんだな。


【追記】(2009.4.22)
その後判明してきた話として、4月新刊10冊のうち、2冊は発行済みで書店にも並んだ実績があることがわかったが、他の8冊はどうも出版されないままお蔵入りになったもよう。

【追記2】(2009.4.23)
さらにその後、他にも出荷されてなんとか店頭に並んだ4月新刊があることがわかってきた。上記で話題になっていた「はじめてのドロンワーク」も、店数は少ないながら、店頭に並んだケースもあるもよう。でも、結局出荷に至らなかったと思われる本もやはりいくつかあるもよう。

「はる」の間の抜けっぷり

春たけなわ。
なんとなく、ああそろそろ春だな春の気配だな、と思うと「ああ、春だなぁ」とつい口に出して言ってしまう癖がある。夏や秋や冬は「ああ夏(秋・冬)だねぇ」とあまり言わないのだけど。
思えば、気温もほんわりとゆるんできて、陽光がぽかぽかとして、体にあたる風もぬくんでくると、なんとなく口もゆるくなりたくなるようで。特に、そんなほわ〜〜な気分のときに「はる」と口に出して言うと、ますますゆるい気分になれる。
「はる」の「は」の子音、hの間の抜け具合がゆるい気分にぴったりなのだ。らさにそのあとの母音がiでもuでもなくaなので、さらに間抜け気分倍増。「は〜」と、温泉に入って「は〜、極楽極楽」と溜め息をつくときみたいに言うと、もうそれだけで極楽な感じ。それに続けて「る」と言うと、「るんるん♪」の「る」のように楽しい音になる。
してみると、「はる」という語感はよくできている。なんだか実に春っぽい。


「なつ」は、nの粘着質な語感が、高温多湿な日本の夏っぽい。
「あき」は、「き」のkに枯れ葉を踏むようなカサカサとした雰囲気がある。
「ふゆ」は、2つの母音uがいかにも寒くて口を開けたくない、そして冷たい北風の吹く冬という感じ。
しかし、どれも、「はる」の秀逸さにはかなわないなあ。
門外漢だからよくは知らないけれど、「はるなつあきふゆ」はやまとことばだから、「春夏秋冬」よりは古くから日本にあって、昔の日本人が四季の移り変わりを感じながら、この時期は「はる」、この時期は「なつ」と呼ぶようになったのだろう。
春に「はる」と名前をつけた人はすごい。冬に「ふゆ」とつけた人と同じくらいすごい。


春になって、すこしだけ新しい生活が始まった。
パートではあるが、仕事に戻った。8年近くもブランクがあると、なかなか頭も体もついていかない。それでも、1回目の出勤よりは2回目の出勤のほうが、明らかに自分も慣れてきている。ゼロからの再出発ではない、過去にやってきたことは埋もれてはいるけれどちゃんと蓄積されていた、と、確認できた。
これから、ぼちぼちと。

地元の人にとってはどうなんだろ

ふと思ったが、ドラゴンボールって、ハリウッド実写版ができるくらいにはアメリカでは知名度があるってことなのよね。人気もあるってことだよね。→よく知らないので検索してみると、やはりアニメは人気を博していたもよう。
ということは、ハワイ州の人にとっては、アニメのヒーローが、我らが旧ハワイ王国の偉大なる大王の名前を必殺技にして叫んでる、ということになるのかなあ。
実写版では「かぁーめぇーはぁーめぇー波ぁー!」と叫んでるらしいから、アニメでもきっとそう叫んでたんだよねぇ。


なんてことを、「南の島のハメハメハ大王」をひとり歌いながら思ったのだった。

「ほら、あのおじちゃんに怒られちゃうよ」

タイトルは、よく、子ども叱るときにこう言っちゃいけないだろ、と言われる典型例の1つ。おじちゃんでなくても、おばちゃん、お兄さん、お姉さん、だれでもよいのだが。
よその人が叱るって言うんじゃなくてちゃんと親が自分自身で叱れよ、とか、よその人に叱られるからじゃなくて、どうしてそういうことをしたらいけないのか、ちゃんと親が説明しろよ、とか、子どもの躾に関係ない他人を巻き込むなとか、そういう文脈で否定されるものだ。


長らく自分もそう思っていたんだけれど、いざ子どもを叱る立場になってみると、どうしてもこの言い方を使いたくなるときもやっぱりある、ということがしみじみ分かってきた。
小さな乳幼児のうちはともかく、少し大きくなってきて6歳前後になると、叱る内容が複若干複雑になってくる。「危険だからだめ」「汚いからだめ」といった直感的に分かりやすいことだけでなく、「周りに迷惑だからだめ」「他の人が困るからだめ」といった、社会的な理由で叱ったり躾けたりする内容が増えてくる。
ところが、この「他人に迷惑をかける」というのは、まだ理解するのにやや難しい年齢のようで、ようするに社会性の獲得がまだ未熟なので、自分の世界にいない「他人」が自分の行為で「迷惑する」ということがすっと理解できないことがあるのだ。年齢的にまだ抽象的な概念を理解するのに不足がある、ということもある。目の前にいない「他人」が「迷惑する」ということをうまく想像できないのだ。
そこで、具体例として、「○○ちゃん(本人)はそういうことされるといやでしょ?」という言い方を使うのだが、これがまた子どものこととて、「なんで? 私は全然いやだと思わないのに」となってしまうことがある。こうなるとお手上げだ。想像してみろ、と言われても、自分と異なる感じ方をする、しかも具体的な誰かではなく抽象的な「他人」を慮るなんて、このレベルの子どもには無理ってもんだ。


そんなとき、具体的な「目の前の他人」をとりあえず置いてみると、わりと理解してくれたりする。「そこのおじちゃんが、そういうことをするあなたを見て、いやな気持ちがするかもしれないんだよ」。こう言うと、子どもは、あ、そうなのか、と腑に落ちる、らしい。
こっちとしては、その人を悪者にしたいわけでは全くなくて、そのように表現しないと、子どもに「自分のことを、(自分の内的世界には存在しない)赤の他人が実は見ていること」「赤の他人が自分の行為によって不快になること・迷惑すること」「自分の狭い内的世界よりもずっと広い世界・社会が存在していること」をうまく理解させられないからなのだ。


まあ、もう1つは、このくらいの年齢になると、親には叱られ慣れてしまって、叱っても叱っても屁の河童、適当に流すことを覚えてしまっている、ということもあるんだけどね。特に公共の場でのマナー的なものは、子ども自身にとっては、注意を無視しても自分に実害(親から叱られるのは慣れちゃって害にすらならない)がないので、ますます流す。そういうときに、他人からの視線を意識させると、少し冷静になってくれることがある。


自分の場合、このタイトル的な言い方は抵抗はあるんだけど、たまには使ってしまう。
この場を借りて、謝っちゃう。ごめんなさい。


【追記】(2009.3.6)
自分が「おじちゃんに怒られる」パターンを使う場合の自分的ルール。

  • 相手を特定の人物に限らなくてすむ場合は、できるだけ限定を作らない。例えば、「あの人が」ではなく「周りの人が」「近くの人が」という表現にする。ただし、例えばふざけて誰かとぶつかりそうになった、などの場合は、「ぶつかられそうになった人」という限定をする。
  • 単純に「怒られる」という言い方はせず、「怒られるかもしれない」と推測表現にする。
  • 「怒られる」の理由を必ず言う。ただ、マナー関連は理屈ですっきり説明できることだけではないので、「そういうことが嫌いな人も世の中にはいて、そういう人がここにいるかもしれない」という言い方を使う場合はある。
  • これらは、周りの人に聞こえないよう、必ず子どもの耳元で小声で話す。こういう言い方が聞こえて、全く不愉快に感じない人は極めて少ないだろうから。
  • そして、この言い方は普段はできるだけ使わず、他によい方法が見つからない、あるいは他の方法を何度も試して効果が薄かった場合にのみ使う。やはりこれは「悪手」であって、使う時は自分も罪悪感があるというか、よい気持ちはしないからだ。しかし、言うことをきかないからとあきらめて投了(放置)するよりはずっといいと思っている。

水栽培ってどこへいったのかな

子育てしていると、そういや自分の子どものころはあんなのあったなぁ、今はないのかなぁ……と思い出すことがあれこれと出てくる。
今回突然思い出したのは、水栽培。太いとっくりみたいな瓶に水を入れて、その上に球根を置いて花を咲かせる、あれ。
チューリップとか、ヒヤシンスとか、クロッカスとか、あったよなあ。
ヒヤシンスの水栽培セットとか、小学生向けの教材や、学研の科学の付録なんかにあった記憶があるんだけど、今は同じ草花育てセットでも水栽培ではなくて、園芸用の土のついた植木鉢と種のセットである。
室内でさくっと育てるにも、お世話いらず場所とらずで便利だったので、ご家庭にもちょこっとあったりしたような気がするんだけど。
たぶん、ドロドロにならない園芸用の土の開発がすすんで、教材などにもどんどん使えるようになった*1ので、わざわざ水栽培にして、種にくらべると高価な球根などを教材にしなくてもすむようになったし、室内鑑賞用でも品種改良などで、小さな鉢でも長持ちさせられる品種が増えてきた、ということもあるんだろうなあ。と勝手に推測だが。


なんだか急に懐かしくなって、「ヒヤシンス 水栽培 セット」でグーグル先生とお話してみたら、100均で水栽培セットが売っていることもある、ことが判明。
ヒヤシンスってけっこう色も見た目もかわいい花なんですよね。ちょっとずんぐりむっくりなところもかわいい。
水栽培しなくても、土のプランターが我が家にはあるし、春になると学研さんからまた次の教材がやってくる(今年は綿とタマゴナス)ので、まあいらないっちゃいらないんだが。

*1:実際、学研の科学やこどもちゃれんじの教材には、少量の乾燥土がついてきて、水で十分に湿らせるとやわらかくなり、そこに種を蒔くようになっている。さすがにある程度大きくなったら植え替えないと無理だが。