深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

自分の時間が動いていないとき、淋しさに覆われる

淋しさってのは、自分の時間が動いていないときに起こるものなんだな、と気づく。

 

もともとあまり独りでいても淋しいと思わないタイプだ。

いわゆるおひとり様行動が気楽でよくて、やりたいことがあれば誰かを誘うよりとっとと自分ひとりで動くほうが早くて好き。どこかに小旅行するのでも、おいしいものを食べに行くのでも、買い物に行くのでも。

子育て中は家にひとりでいることも多かったが、それも気楽で好きだった。むしろ家族が帰ってくると賑やかすぎて面倒くさい、と思うこともしばしば。

それで何十年やってきたし、基本的に淋しがりじゃないんだろう、と自分でも思っていた。

 

それが、ここのところ、急にどうしようもない淋しさに襲われて、誰ともなく助けを求めたくなることがある。

家族が家にいるときはなにかと気が紛れるけれど、短時間ふっと一人になったりするときや、人混みの中にいてもふとしたはずみに、淋しくて淋しくて、声をあげたくなる。

おかしいな、こんな人間じゃなかったはずなのにな、ともう一人の自分が冷静に自分に言うのだけど、それでも淋しいという感情がわき上がることを抑えられない。

 

淋しい、と思うことは、独りどこかに取り残されていると感じること。

周りだけが活動的で、動いていて、でも自分はなにも動いていない、時の流れが止まったような感じがするとき。

 

思えば、これまではたとえ独りでいても、時の流れが止まっている、と感じたことはなかった。

独りでいながら、次にやること、次にくることを頭の中で考えている。この次、さらに次がくることをあたりまえに期待していた。今そこにいない人の時間が流れているの同様に、自分の時間も同じ速さで流れていた。

だから、大事な人と遠く距離が離れていても、淋しくはなかったのだ。その人と同じ時間の流れの中で生きている、と自然に感じていたから。

家庭にこもっているときでも、子どもの時間が流れていた。近くで面倒をみる親にとっては、小さいころの子どもの時間はすなわち自分の時間でもある。むしろ、子どもの時間を一緒に過ごさないわけにはいかない。幼稚園や学校に行っている間でも、帰ってくる時間はいついつだから、それまでにこれをして、あれを片づけて……と考えていると、事実上、子どもの時間のペースを共有して暮らしていることになる。長いスパンで見ても、子どもの行事が次から次へとやってくる。

 

今の私は、ぼんやりとしていることが多くなった。

ぼんやりと、自分の心の中の、世間の流れとは隔絶されたところに行って、世間とは全然関係ない私的なことを、ぼんやりと、考えて、気がつけば時間が何十分もたっている。ぼんやりと。

家族は家族で自分の時間を生きている。

友人たちも、知人たちも、当然、それぞれの時間を生きている。

ときどき会ったりSNSでしゃべったりして、そんな彼らの時間の流れに触れると、そのときだけ何かしらバイタライズされたような気持ちになる。

が、それは私自身の時間ではない。

私の時間は、しばしば止まる。

時間が止まっているとき、そのときは自分は独りで、孤独だ。

 

そこまでようやく見えたから、自分の時間をどうやって動かすことができるのか、そのことをこれからは考える。