深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

耳慣れないもの、見慣れないもの

耳の方が、目よりも、新しいものに対して抵抗感があるようだ。
初めて聞いた楽曲は、好きなジャンルや好きなタイプの楽曲でも、聞いていきなり「これは好き!」とビビッと感じることはあまりない。なにか居心地の悪さというか違和感を感じ、聞きながら「こういうところが好きじゃないなぁ……」と自分に内心で言い訳してみたり。ところが、初めて聞いた時はあまりピンとこない曲でも、何度も何度も繰り返し聞いているうちになんとなく好きになり、馴染んできて、いつの間にかお気に入りになって自ら口ずさんだり鼻唄を歌っていたりする。
目で見るもの、例えば絵画や写真、彫刻やオブジェなどについては、あまりそういう感覚をもったことはない。初めて見た絵や写真でも、違和感や抵抗感を感じることはあまりなく、素直に「ふーむ」と受け入れている。好きな作品については「あ、これ好きだな」と最初から感じることが多い。そして、最初に好きだなと思ったものについては、特別な理由がない限り、その後もずっと好き。


これらは、聴覚がどう、視覚がどう、という普遍的な話ではないのかもしれない。
例えば味覚なら、普段味わい慣れないものを食べ飲みしたとき、人によって感じ方がかなり違うように思う。新しい味に好奇心や興味が強く、いろいろな食べ物にどんどんトライしていき、実際に新しい味を「おいしい」と積極的に感じる人。一方、食べ慣れないものが好きでなく、実際に多くの人から「おいしい」と評価されているものを食べても自分の食べ慣れないものだと即「好きじゃない」と感じ、自分の好みから逸脱しないものをできるだけ選んで食べる人。この違いは、末端の感覚器である味蕾の違いからくるのではなく、もっと高次の脳のレベルからくるものだろう。
(余談だが私は前者。食べ慣れないもの、変わったものが好き)


それでも、なんとなく思うのだ。
耳からの音や音楽の情報は、視覚情報よりもなお、耳慣れたもの、懐かしいものへの吸引力が強く、その吸引力が、耳慣れたものを好ましく感じる所以なのではないかと。
自分の若いころや、何かのイベントと深く関連した音楽を聞くと、一瞬のうちにその頃の思い出や気持ちを思い出し、心の中でその瞬間に返ったかのように感じることがある。視覚情報だけでそこまで強く時間を遡ったことは、今までない。
むしろ、視覚情報からは、「あれ、こんなだっけ?」と感じることのほうが多かったかもしれない。高校卒業後、20年近く経過して校舎を訪れたとき。「あれ……こんなに何もかも小さかったかな。扉も教室もロッカーも」と感じたことが忘れられない。高校卒業時だから、今と身長は変わらない。けれど、何もかも小さくて、こじんまりとしていて、そこで自分が長い時間を過ごした、その体験とうまく感覚が一致しなかった。


音声のほうが時間によって変化しにくいのだろうか。そして、視覚情報は時間経過による変化が大きいのだろうか。記憶の中でも、現実にも。