深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

同質性の上の多様性

最近考えてるのは、同質性についてのこと。これはKY関連に通奏低音のように響くものだから。そこから引き続いて頭の中で鳴っている。


人間は同質性の中に安定を見いだす存在である、のじゃないか、というところまではなんとなく分かってきた。
多様性の尊重は個々の人間を過ごしやすくしてくれるけれど、その基盤には同質性があって、すべての同質性が失われると(それはまずあり得ないことだが)極めて不安定な状態になり、結果的に多様性を認容できなくなり、強固な同質性への回帰が起こるのではないか、と。
しかし、同質性が強ければ、やはりその同質グループ内での個々の人間の異なる部分が目立ってきて、やがて多様性尊重への牽引力が強くなる。
結局、そんな感じで、それぞれからの引力の釣り合うあたりで、同質性への引力ベクトルと多様性への引力ベクトルがそれぞれの方向へ綱引きしあい、あちらへ動き、またこちらへ動き、と細かい動きを繰り返しているのではないかと。


そのへんが、KYという言葉が流行るところにあるんじゃないのかな、ということをちょっと考えていた。


ヒトがヒトという同種の生物である以上、一定の同質性が失われることはない。
さらに、ヒトは群れで暮らす社会的性質をもつ生物である以上、さらにもう一段上の同質性もまた保たれる。
多様性の尊重とは、同質性を否定するものではなく、一定の同質性が存在し安定しているからこそ、多様性を認めることができる。
次に考えるのは、安定するために求められる「一定の同質性」の程度や質が個々の人間によって異なることとか。つまり、ある人は、他人と自分に違うところがあるからといって不安定にならないけれど、別の人は、同様の違いに対してもとても不安になることがある、それはどちらも間違った感覚ではなく、それなりの理由や基盤があるのではないか、とか。


このへんまできたけど、まだ散漫でまとまらず。