深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

「裏表のない人」

「裏表のない人」というと、褒め言葉というか、良い評価をあらわす表現と一般的にはとれる。
しかし、悪意や悪感情をまったく感じない、もたないという人間はいないと思うから、裏表がないということは、ふと感じてしまった悪い感情(嫌いだとか気に食わないだとか)や悪意をその場にいる相手に大して隠すことなくぶつける、ということにならないだろうか。
そういう態度自体は良い面もある一方で、もしそう思っても一応は隠しなさいよ、という場合もあるだろうから、手放しに褒められることでもないような気がする。


誰に対しても態度が変わらない、という意味で、「裏表がない」と言われることもある。
誰に対しても変わらない、というのは、見方を変えれば、言動の決定要因が自己のみ、ということである。自分と相手の関係性はその要因にならない。
ということは、その人にとって、他者が何者であるか、どんな人であるか、ということはコミュニケーション上意味をもたない、ということである。AさんもBさんもCさんも変わらず一律に「単なる他人」、常に one of them。浅いつきあいならそれでいいわけだが、その先はない。


悪感情や悪意を感じたとしても、その相手に直接だけでなく他の誰に対しても表明しないのであれば、これも「裏表がない」という評価になるだろう。
つまり、自分の感じた悪感情は自分の中だけに押しとどめ、すべての他人に対して、常に穏やかに接する。
しかし、こういう人は、また往々にして「お腹の中では何考えてるかわからない人」とも言われる。すべての人に対して悪意が漏れ見えない人なのであれば、その人と関係する人は、じゃあ本当はこの人からどのように思われているのか判断しようがないではないか、という不気味さを常に感じることになるだろう。


「裏表のない人」という表現は、いい意味に使われることが多いけれど、なんとなく私は胡散臭いというか、ちょっと何かに騙されているような気がしてしまうことがある。
人間なんて、裏表があって当たり前だろう、と。裏表のない人間なんて、幻想か、もしくは本当に存在したらひどくつきあいにくい人だろう、と。