深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

「過」を判断するには

ここ数日、親の過保護過干渉に関する記事が人気を集めていたもよう。
このあたり(ブックマークコメントなどが主)をつらつら読みながら、思った。
過干渉、過保護の「過」はどのへんが基準になるのだろう。
当然のことながら、親は子どもにある程度は干渉するし、保護する。全くこれらをしないのはネグレクトで、これはこれで問題。とはいえ、「過ぎたるは及ばざるがごとし」という言葉もあるわけで、過保護、過干渉が子どもの成長や精神のバランスを著しく崩すことがあるのも事実。
じゃあ、どのへんまでが「過」保護で、「過」干渉なのよ、という話。


自分も人の子で、また人の親であるわけだが、このへんの判断はどうにもつけられない。自分でつけられるとは思えない。少なくとも、当事者(親本人と子本人)には正しくはつけられないんじゃないだろうかなあ。第三者としてある親子の話を聞いて「そりゃ過保護(過干渉)だね」とは思うかもしれないが、今自分のしていること、特にリアルタイムで現在進行形でしていることについては、本当に判断がつかないと思う。なぜなら、自分が干渉・保護している時は、必要だと思うからしているわけで、「自分やりすぎ!」と思いながらやっている人はまずいないだろうから。
して考えてみると、過保護・過干渉にできるだけならないようにするためには、ある親子関係に対して、複数の外部からの目があることがもっとも重要なんじゃないかと思う。具体的には、家庭内でなら、母子に対してなら父、父子に対してなら母。それから子のきょうだい。さらに祖父母たち、親族、友人、子の先生、その他のコミュニティの人々など。親子関係に口をはさめるほどの関係の人はなかなか得られないのが現実だろうけど、少なくとも一人もいないような状況では、どのあたりが「過」でなく「不足」でもない中庸の範囲なのか、誰にも判断できないんじゃないかと思うわけで。


とりあえず、親が自分一人(あるいは二人)で全部背負ってしまうのだけは良くないなぁと常々思っている。