深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

その存在を抹消する望み

こうのとりのゆりかごに捨てられた3歳の男の子のニュースやそれに絡んだ記事をなどを読んで、どんよりとした気分になる。
捨てられたのが新生児だったら、ここまでどんよりした気分にならなかっただろう。
自分の感覚からすると、新生児と親とは、まだ親子ではない。まず出産を通じて「あなたたちは親子ですよ」と宣言されただけ*1で、親子になるのはこれからだ。結婚するとき、婚姻届を出してもそれは「これからこの2人はそういう関係です」という単なる印であって*2、そこから始まり二人の関係性として作り出す結婚という状態のほうがはるかに重要であることと同じようなものだ。
新生児のうちに子を捨てるのは、最初から親子という契約をしない、そこに親子関係を作らない、ということのようなものだと思える。もちろんその是非は別として。


この男の子は、自分の父親が誰だか知っている。年齢的に、名前は正確に覚えていないとしても*3、顔を見ればわかる。母親についても知っているはずだ。今まで一緒に住んでいたのか、いつのまにか家からいなくなっていたのか。それとも記憶にある限りでは母はいなかったのか。死別と生別の区別はつかなくても、そばにいるかいないかは覚えている。
既に、男の子は、自分の父親と父親と認識し、親子の関係を作っていた。
その関係を、父親は、一方的に断った。ただ育てることが困難だから預けるというだけではない、その子との関係性を完全に断ちたい、自分の人生の中からその子の存在自体、そして存在した事実を完全になくしたいと願った。だから児童相談所でなく、こうのとりのゆりかごへ行った。
この男の子と父親がもった3年間余の関係はどんなだったのだろう。少なくとも、男の子は、父親を疑わなかった。かくれんぼしよう、と言われ、ただ楽しく遊んだ。そして、父親の側は、男の子をどのように見て、どのように感じていたのだろう。ちょっと預かってもらうよ、ではなく、かくれんぼをしよう、と言って、去った。


父親の側の事情はわからない。そして母の存在もわからないが、とにかく3歳まで育てた。新しい服を着せてやった。彼は子どもを捨てた、でも子どもへの想いが何もなかったとは思えない。
ただ分かることは、彼は、子どもとの関係を完全に断ちたかった。彼の人生から、子どもを抹消したかった。そして同時に、子どもの人生から、自分自身を抹消したかった。一度は親子として過ごした二人の人生から。
でも、子どもにとっては、もう抹消することはできないのだ。3歳ならもう物心がつき、人生最初の記憶が残る時期だ。父の顔は忘れてしまうとしても、自分には父がいた、ということはおそらく忘れないだろう。


どんよりと胸が重い。

*1:誰に? 誰だろう。

*2:社会制度的には、基本的にその印のほうにこそ意味があるのだが、それはまた別の話。

*3:その後見た報道によれば、父親の名前もはっきり答えているという。