深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

「○△ちゃんママ」の意味するもの


○△ちゃんママ、と呼ばれる違和感 | 共同合宿所
この記事を読んだ。
私も「○△ちゃんママ」なんて呼び方は嫌だ。違和感なんてもんじゃない、たぶん直接呼ばれたら虫酸が走る。幸い呼ばれたことはないが。
「○△ちゃんのお母さん」はセーフというか、特に嫌とも思わない。これはある意味当たり前の話で、幼稚園において自分の立場は園児である子どもたちに従属する立場だから、先生や他の保護者から声をかけられる場合、なにか用があるならばそれは子どもに関する用である。元記事の比喩をお借りすれば、アフター5ではなく、業務中に該当する。
だが、それでも、「○△ちゃんのママ」と呼ばれるのは、抵抗がある。そもそもママという言葉は、幼児語の類だ。子どもの頃から使い続けている習慣で大人になっても家庭内で自分の親の呼称がパパ、ママであるのはまだあるかと思うが、赤の他人同士、大人同士で「誰それのパパ」「あなたのママ」と言うのはやはりどうにも妙な感じだ。
さらにそれが接続詞が抜けて「○△ちゃんママ」になったら、もうあかん。これは明らかに呼称である。もはや関係性や属性を表す表現ではない。他人に勝手にわけのわからないあだ名をつけられるようなものだ。ネット上のハンドルでしばしば見かけるように自分でそう決めて使うのはいいが、他人に勝手にそう呼ばれたら「お前にそう呼ばれる筋合いはないっ」とグーで殴りそうだ(虚空を)。


姓で呼べばいいのに、というのは至極普通の意見ではある。
単に子どもを通してだけではなく、保護者個人同士の関係がつくられ始めれば、自然に姓などで呼ぶようになるものだ。例えば、保護者同士も顔見知りになってきて本人同士で友人・知人関係になった場合や、PTA関係で直接接するようになった場合など。役員同士が活動の中で「○△ちゃんのお母さん」と呼び合うのはあまりなかろう。むしろ子どもが一緒にいないのに「えーと、誰のお母さんだっけ」などと思い出すほうがまどろっこしいし面倒くさいわけで。


「○△ちゃんママ」という呼び方には、実は「あなた個人が誰か、どんな人かには興味がありません。(心理的な意味で)直接接する気はありません」という意志が無意識のうちに反映されているのかも。筆者のうがんざきさんはコメント欄で

色々考えてみたんだけど、家族というセットで人付き合いをすると、人間関係への気遣いが極端に怠慢になるのではないか、と思います。

と述べているが、逆に言うと、家族という「他者」に引きずられて進んでしたいわけじゃない付き合いをしなければならない状況で、そこに深入りはしたくない、「他者」(この場合は子)に必要なだけ過不足なく付き合いたいとは思うけれど「私という個人」を投入するコストは払いたくない、という人も当然いるわけだ。もっと平たく言うと、相手をあくまで「子どもの友達の親御さん」という遠い存在にとどめておきたい、という場合がある。少なくとも、私はそういうタイプである。
それを怠慢ととるか、むしろより多くの関係者(本人も家族も含めて)が嫌な思いをよりしにくい距離を保つ努力をしていると見るのか、見方によっては感じ方は変わってくるかなとは思う。


そういう意味では、元記事のコメント欄にある「要求がわかりやすくて好き・・・かな。」という意見はなるほどと思う。ただ、それでも、私は「○△ちゃんママ」ではなくて「○△ちゃんのお母さん」と呼んでほしいけれど。