深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

ごく自然に「群れる」子どもたち

かなり以前に本宅ブログのほうでふたつとない日常: 子連れカフェがあったらいいのにという記事を書いた。
そこにも出てくるが、うちは田舎なので、親子カフェらしいものといえば、せいぜい遊び場つきの郊外型マクドナルドくらいである。それでもないよりはありがたいもので、今頃のように気候がよければ、昼食ついでに軽く遊びに行ける。同じようなことを考える人は多いもので、今どきのようにどこの幼稚園も半日保育の頃には、昼食時間帯を中心に親子連れで店がいっぱいになる。
当然遊び場も盛況で、そう広くもない遊び場の中をお互いぶつかるようにしながら、子どもたちが遊んでいる。
娘2人も楽しそうに走り回り遊び回っている。同じ場所を繰り返し繰り返し回りながら、いつまでたっても飽きる様子がない。ちなみに、ここの遊び場にあるのは、すべり台や回せるハンドルなどがついた、プラスチック製の複合遊具である。さほどスリルがあるものでもなく、珍しいものでもない。
不思議なもので、児童公園などにあるような、同じくらいの規模の複合遊具で遊んでいても、そう長続きはしないのである。せいぜい10分、15分くらいのもの。すぐに飽きて他の遊具へ走っていったり、「ママ、来てー、一緒に遊ぼー」となったりする。ところが、ここでは30分近く子どもだけで遊んでいて、しかもまだ遊びたいと申す。
いったいどこが違うのかというと、遊び場がわりと狭いことと、他にも遊んでいる子の人数が多い、つまり賑やかだ、ということだ。別に人数が多くても、知らない子ども同士でコミュニケーションをとりあっているわけではない。ただ、同じ場で別々に遊んでいる子が多いだけだ。


どういう理屈なのかはよく分からないのだが、子ども*1は、遊んでいる時に人数が多いというか、人口密度がある程度高いほうが、遊んでいて楽しいと感じるようだ。ただ人数が多ければいい。友達になるかどうかとか、一緒に遊ぶかどうか、とかいうことは、あまり関係ない。
こういうのを見ていると、スケールメリットとかコミュニケーションとかそういうのは別にしても、なんとなく人が多いところがヒトは好きみたいだ。群れることが好き、いや、群れになっている状態が好きというか。互いに特別利害関係もなく、コミュニケーションをとるわけでもなく、ただ同じ場所に同じ時間に存在する、というだけの意味での「群れ」だが。グループやコミュニティを作るという意味での「群れる」とは全く別の意味。


大人になると、単純に前者の意味で「群れる」ことができなくなり、ある程度の人数が集まれば、あるいはある程度の人数が集まるためには、周囲の人間となんらかのコミュニケーションをとる必要が生じたり、利害関係が発生したり、ややこしいことになりがちだ。前者の意味での「群れる」は、都市部の人込みのような感じでしかなくなるのだろう。
全く他人同士の子どもたちが、あちこち身体をぶつかり合わせたりすり合わせたりしながら、互いにいるようないないような、しれっとした顔で遊んでいるのを見ると、自分から分別ある大人としてのバイアスを除いたら、私もああいうふうになるのかしら、とちょっと思わないでもない。

*1:ここでいう「子ども」は3歳〜小学校1、2年程度の子を想定している。