深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

若い時は頼られたくない。年を経れば頼られたい。

http://d.hatena.ne.jp/moonstones/20070215/1171551651より。

頼られるってどういうことかな

考えてみてください。

命がけで頼られたことってある?

http://d.hatena.ne.jp/moonstones/20070215/1171551651

それが、今の若い人にはウザイのかなぁ・・・・

http://d.hatena.ne.jp/moonstones/20070215/1171551651

リンク先記事は、id:moonstonesさんの、産みたくない人はなぜ産みたくないのか。産みたくない人にどう伝えれば産むことの素晴らしさを伝えられるのだろうか、ということについての話。


このあたりについてはちょっと前から思っていることがある。
子どもを産み育てるということは、生まれた時点から、親は自分の人生を生きると同時に、子どもの人生の指南役、サポート役という、いわば重要な裏方という存在となる。*1
この、誰かの裏方となる、ということが、若いうちには難しいんじゃないかと。
昔と比べて、子どもが成長し、大人とほぼ同等の存在として社会的に認められるまでの期間が長くなった。自分の親世代には、まだ高卒中卒で働く人もかなりいたし、大学院まで行くような人はとても少なかった。この時代、20代半ばくらいには、既に自分の社会的な立ち位置や仕事の行く先がある程度見えている人が多かったのではないだろうか。
現在は、研究職志望でなくても院へ進む人は多くなり、同時に終身雇用の風潮がかなり薄れ、学卒で就職しても、2〜3年ではまだまだ、5〜6年は勤めないと先が見えてこない。フリーターや派遣など、さらに先の見えにくい仕事につく人も多いし、そうしながら「自分にふさわしい仕事は何か」「自分の夢を追う」とさらに歳を重ねるまで自分の居場所を探し続ける人もいる。
社会という舞台上で「これが俺(私)の立ち位置」という足元が定まって、自分が何者かになる前には、例え自分の子であっても、他の人間の裏方に回る気になろうはずもない。自分をマネージメントするだけで手一杯。
出産の高齢化や少子化の背景には、単に経済的に安定しない、あるいは若いうちは自由に遊びたい、という気持ちだけでなく、そういった裏方へ回ることへの抵抗感、不服感があるのではないだろうか。
もうちょっとくだけた言い方をすると、「なんで自分まだ主役になってないのに、脇役に回んないといけないわけ?」という感じ。「頼られるとウザイ」というより「ちょっとこっち自分のことで必死なんだから勝手に頼んないで! 面倒みれないって!」という。


自分自身がいろいろな意味で"子ども"でいたいと思ううちは、誰かの親になる気にはなれない。
自分はもう"子ども"じゃない、自分だけのために頑張るのはもう十分、と思ったときに、やっと他の誰かを育てよう、助けようという気持ちに心からなれるんじゃないだろうか。


しかし、一方では、出産にタイムリミットがあるのも事実で、20代よりは30代、さらに40代になれば、どんどん子どもを産むことが困難になる。やっと自分の立ち位置が定まって、さあこれで次は子ども、と思った時には、もう産めなくなっていた。不妊治療をするも、時間だけがどんどん過ぎる。
今の日本では、社会的・精神的に成熟する時期と、身体的に成熟する時期の乖離が激しい。特に女性において、この乖離は切実な問題となる。


これを解決するために何ができるのかは、まだ考え中。
昔のように早い時期に社会的成熟期(大人になる時期)がくるような社会にすることはどだい無理だから、出産によって親となった人が、さらに社会的に上を目指す、夢を追うことも可能な仕組みを作ることがひとつの方法になるのだろう。
形になっているものでは、育休延長や取得の便利、育休後の身分・評価保証などもそれに含まれるかも。
しかし、そういった働く場の問題だけじゃない、とも思っているのだ。思っているけれど、なかなかうまく言葉にできない。専業主婦でも、子どもができた途端に「○○さん」でなく「△△ちゃんのお母さん」になってしまう、という、あれ。もう十分に「○○さん」でいられました、と思えば、あとは「△△ちゃんのお母さん」でも構わない*2のだけど、そこが十分満たされてないとやはりいきなり「△△ちゃんのお母さん」は嫌だろうし。
まだ(精神的に)若くて自己顕示欲や承認欲求が強いほど、そこはネックになる。


ひとつ書いておかねばならないのは、いざ「△△ちゃんのお母さん」になってみると、それがけっこう嬉しくて楽しいものではあるのだ。それ自体が嫌なのではなくて、「○○さん」でなくなってしまう、「○○さん」として存在できる場がないのが嫌なだけなのだ。両方であれれば、問題ないのだ。いや、問題ないどころか、両方味わえて楽しさもお得感も倍増。1粒で2度おいしいとか。

*1:以前、「子どもによって「『生きる存在』から『死に行く存在』に変わる」という記事でそのあたりについて書いたことがある。

*2:現在の私はこのへん。