深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

子どもは寂しく感じてはいけないのか

昨日の日記の続き。

今日のテーマはこれである。
2)子どもは寂しさを感じてはいけないのか。


この文章では舌足らずなので、きちんと言い換えると、「子どもに寂しさを感じさせることは悪いことか」となる。


昨日とりあげた記事では、このように書いている。

大人の都合でこどもに寂しさを強要する事は本来あってはいけない事じゃないですか?

こどもに寂しい思いをさせちゃいけないと思いませんか?


私はそうは思わない。むしろ、寂しさを経験してこそ、成長できる、一人前になれるのだと思っている。
もちろん、ここでいう寂しさは、昨日の日記でも書いたように、大人や親が子どもを顧みない、大人に見捨てられたために感じる寂しさではない。親は子どものことを大切に思って育んでいるけれど、物理的に離れたり、あるいは一緒にいたとしても親が自分の仕事をしたり、大人の用件をしたりしている時に感じる、一時的な寂しさのことである。


2人目の子どもを持った人の多くが経験していると思うが、下の子が生まれると、上の子は当然のことながら寂しがる。そして、赤ちゃん返りを起こしたり、そこまではいかなくても、母親の気をひこうとしてイタズラが増えたり、わがままになったりする。
この寂しさは、なくすことはできない寂しさだ。いったん生まれた弟妹が消えることはない。親を独り占めすることはもうできない。今までにはなかった寂しさを経験する。
しかし、大事なことだ。寂しさを経験することで、親の大切さを認識する。いつでも親を自分の思うように動かすことはできないこと、親には親の世界、親のやり方があることを認識する。それが成長であり、自分だけの世界でなく、他者との関係の中で生きることにつながっていく。


おそらく、元記事の著者は、「それは大人の都合ではない」と思うだろう。
果たしてそうだろうか。
むしろ、それこそ大人の都合ではないか。一人のことだけ見ていたいと思うならば、一人っ子でいいのだ。少子化の世の中とはいえ、2人目を生まなければならない義務はない。自分が子を生むことを選んでいるのだ。


つまるところ、世の中は、大人の都合で動いている。社会を動かしているのは大人なのだから、当然だ。
子どもはその大人の都合で出来上がっている社会の中で生きていく。
子どもはそんな大人を見て、大人がうらやましかったり、大人はずるいと思ったり、大人って汚いと思ったり、早く大人になりたいと思ったりする。
そして、やがて大人になる。大人になって、大人の都合、大人の理屈を知る。
そんなことを、人間は、もう何百年何千年も続けてきたはずだ。
今の大人もみんな昔は子どもだった。
そんな様子を見ていると、子どもを寂しがらせてはいけない、大人の都合で動かしてはいけない、なんて言うこと自体、大人の勝手な思い入れであって、本当は子どもはもっとたくましいんじゃないか、と思うのだ。


ちょっと前までは、生活はこんなに便利じゃなかった。
家電製品が揃ってきたのも、自分たちが生まれたころ。それより前は、専業主婦だって、家事に時間がかかって大変で、子どもと一緒に遊んでいる時間なんてあまりなかった。
今よりも第一次産業に従事する人が多くて、子どもにかまけている時間は今ほどにはなかった。
そんな中で、子どもたちは寂しかっただろうか。
子どもは子ども同士で遊び、大きい子は小さい子の面倒をみた。それで寂しかっただろうか?


最近、いろいろな事件の報道を見ていたり、さまざまな子どもにまつわる事柄を見聞きしていると、すごく子ども中心主義だなぁと思う。ようするに過保護だ。
寂しさを知らされない子どもは、親から離れた時の寂しさを知らないから、親と再会したときの嬉しさも知らない。いつでも親が自分の横にいて当たり前だと思う。だから、自分の世界から親がいなくなる、自分の世界と親の世界は別物だ、ということが想像できない。
すなわち、親と自分の適切な距離を見切ることができないのだ。*1


私の結論はこうだ。
子どもには寂しさを経験させるべきだ。
一緒にいられる時間を使って子どもに親の思い、愛情を伝えられているならば、ある程度の寂しさを経験させることは、子どもの成長にとって有意義なことだと思う。正常な範囲での感情の起伏を経験するのは、感情やものの考え方を豊かにするために、とても大事なことだ。
寂しいと感じるから、誰かを求める。誰かを自分にとって大切な存在だと認識する。そこにいて当たり前、ではなくて、そこにいてくれることに感謝し、その存在に喜びを感じる。


ただ、この「ある程度」は正直、個人差がかなりある。甘えっ子もいれば、最初からわりあいあっさりした性格の子もいる(私の幼少時はこっちだった)。
甘えっ子を無理やり離す必要はもちろんない。しかし、どんな甘えっ子でも、いずれ親元を離れ独立していく。小学校に親同伴で行く子は特別な事情がない限りない。
どんな甘えっ子でも、どこかでは喪失の寂しさを経験せねばならない。それが成長というものだ。


ちなみに、専業主婦かワーキングマザーか、というのも基本的には関係ない。専業主婦にも、子どもから離れる時間があっていいのだから。
だから、「寂しくさせないために仕事をやめて家にいてあげましょう」という論調も、私からすれば成立しない。


子どもはたくましいもの。壊れものじゃない、日々成長して、ぐんぐんとシナプスを増やしている存在なのだ。
もっともっと大人が子ども自身の力を信用してあげてもいいじゃないか。ほしいものを大人から与えてあげるばかりでなくていい、自分から探しに行く力だってちゃんとある。
むしろ、探しに行く力をつけられるようにしてやるべきじゃないか。
現に、今の若者たちの多くは、自分からほしいもの、したいことを見つけられなくて、迷っているんだから。

*1:その結果、親と離れたいと思った時に過剰反応として起こるのが、最近報道の多い「親殺し」なのではないか、というのが私の考えだが、それはこの記事のテーマからはずれるので、後日別項で述べる。