深く考えないで捨てるように書く、また

もう一度、自分自身と、自分の中の言葉と生で向き合う

ネットの中で拡がっていく人、そうでない人

ネットの中で、世界が拡がっていく人と、そうでない人がいるらしい。

2人の娘は、生まれたときからインターネットがあり、物心ついたころにはSNSがある世代だ。中学からPCをかなり自由に使える環境を整えてやり、中学のころからスマホは持っていないがPCならネットを駆け回れるようにしてあった。

当然といえば当然だろうか、動画サイトを見たり、SNSを使い始めたりするようになる。スマホ持ちではないから、SNSといってもtwitterや、絵を描くのが好きなところからpixivあたりを使っているようだ。

(もちろん登録は親チェックの元、いつでも親が後ろからモニタを覗ける環境で使っている。それが利用の条件である)

というふうに、2人の娘にほぼ同等の環境を用意したのだが、この2人、だんだんとネットへの参加の方向性が変わってきた。

 

上の娘は、twitter上でいろいろなアカウントをフォローはしているが、基本的には「観客」である。たがいにやりとりするのは、ほぼほぼ、顔を知っていて日常的に接している学校の友達らのみ。知らない人への警戒心は強い。

一方、下の娘は、学校の友達らとはネット上ではあまり交流がなく、ネット上でつながっているのは、たまたまネット上でみつけた、どこの誰とも知らない、同趣味のアカウントたちだ。その人たちとネット上でのみやりとりをし、楽しんでいる。もちろん自分の個人情報も出していない。

姉妹といえど、かように対照的だ。

 

上の娘のネットの使い方は、LINEなどにみられるような、限られた狭い範囲の人間関係を、制限をかけたまま、SNSへも持ち込む、というような使い方。

下の娘の使い方は、人間関係をどんどんと押し広げていくような、自分の行動範囲、世界が拡散していくような使い方。

自分がかつてインターネット前夜のネット世界と出会い、ネットでなければ出会うこともなかったであろう人々と知り合い、いろいろな世界を知っていったとき、あれは独特の感覚だった。自分が社会の中でどんどんふくらんで、みるみる大きくなって、いや大きくなるのではなくて「自分」の範囲が拡がってゆく、「自分」の体積というかアトモスフィアが大きく広くなってゆく感覚。

これこそがネットの醍醐味、ネットならでは、と思っていたんだが、上の娘の様子、あるいは昨今のSNSを使っている人たちを見ると、案外そうでもないのかもな、と思うようになった。

ネットというツールあるいは社会の中で、それぞれの人が望むあり方、心地よくいられる形というのはそれぞれに異なる。最初から小さくかたまり、そのまま安定して小さいまま平穏に過ごすのが合っている人もいるだろう。拡がらないまま、小さく安定して在る人がネット上で増えていったのは、そういう人たち向けの場がネット上に用意された、ということもあるだろうし、それによって、以前の、拡散することが当たり前だったネットであれば怖くて参加できなかった人たちも参加しつづけることができるようになった、ということでもあるかもしれない。

 

自分の昔を思い出しながら、そんなことを考える。

年賀状2017

今日も昔の自分に会いに行っていた。

年賀状 - 深く考えないで捨てるように書く

自分人生がごくゆっくりと、ゆるやかに終息へと向かってゆく道が見えてくる。

30代後半、まだまだこれから紆余曲折あるはずだけれど、それも自分のことよりも、子どもや夫のことであり、自分自身の人生はそれに連動するだけ。

こんなこと書いてた。今から約10年前の年末。

このさいだからはっきり言ってしまおう。

 

そんなことは全くなかった。

 

ゆるやかに下がっていくように見えた坂道は、やがて平坦になり、ゆるやかに上り坂になり、そして2年ほど前からさらに傾斜が強くなり、今年になると、突然に急激に上りだした。今も慣れない坂をえっちらおっちらと日々上り続けている。アラフィフにもなって。

ほんとうに、人生とは何が起こるか全くわからない。わからないからとにかく先に歩め。期待せず、絶望せず、勝手に諦めず、ただ歩め。

 

ただし年賀状の枚数は順調に減った。

先方から来なくなったものもあるし、身内などは高齢になり、もう年賀状をやめましょう、という取り決めになったものもある。歳は確かにとっている。

が、それ以上に大きいのは、友達うちはSNSの挨拶で済んでしまうようになったことかも。10年前と比べて、デジタルデバイスで繋がることができる人は格段に増えた。社会は確かに変わっている。

 

 

深く考えないで捨てるように書く、また

なんということもないけれど、ここ最近、たびたび過去の自分に会いにいくはめになった。

過去の自分は若い。あれやら、これやら、芋づる式に思い出すと、ああもう、なんでそんなに未熟だったんだよ私、でも若いんだから未熟で仕方ないよね、などといたたまれなくなる。

いっそ、昔なつかしい場所や人を訪ねる旅をするように、この際自分からも過去の自分に会いに行ってみるか、と昔のはてなダイアリーを読み返した。

深く考えないで捨てるように書く

で、昔の私に感謝した。

あのとき、自分の駄文を書き散らかしておいてくれてありがとう。

将来の自分がそれを読んで何かを感じるだろうか、と考えて書いたことはなかったと思うけれど。

それで、また、今、書き捨ててみようか、という気になった。

バカみたいな文章でも、また、10年後の私を喜ばせて、救ってくれるかもしれないじゃないか。だからね。

 

それより過去のブログのURLもまとめて。

ふたつとない日常

ふたつとない日常 本館&moblogログ倉庫

 

 

栗本薫さんがなくなった

栗本薫中島梓さんがなくなった。
中学生のころ、すごくハマって読んだ作家さんのひとり。当時どれほどどっぷりずっぽりとハマったかは今更恥ずかしいので書かないけれど(笑)
まあ、元腐女子(当時はそんな言葉はなかったけどね、昭和だし)ということは前にも書いたので、そのへんでも想像がつくかと思うが。
近年はもう全然読まなかったけど……あれは思春期の入り口に読んでこそ面白いものだった。近年の作品自体もいろいろ言われているけれど、私もまあそういう大勢の意見に近い感想だったし。
ブックマークにも書いたけど、寂しいとか悲しいとかは感じない。ただ、なにかが終わったな、と、そんな感覚。グイン・サーガは未完結で終わった、ということも、残念というよりは、ああ、終わったんだ、と。完結はしなかったけど、終わりを迎えた。それ以外にも長らく続きが出ないことで完結しなかった話もあるし。
グイン・サーガは現在未刊行分が数冊分ストックがあるらしいので、きっと、なにやらフェアとともに刊行されるんだろうな。
今はただ、お疲れさまでした、安らかに眠ってください、と思う。ガンの闘病は、実際のところ、そうとう苦しくきつかっただろうから。


ところで、話ががらりと変わって。
栗本さんの訃報がいろいろな報道系サイトから出ていて、はてなブックマークのトップにもずらりと並んでいるんだが、そのカテゴリ分けがなぜかバラバラ。
社会 → MSN産経ニュース
スポーツ・芸能・音楽 → asahi.comYOMIURI ONLINEITmediaニュース
アニメ・ゲーム → Yahoo!ニュース
てな感じ。訃報記事だから内容的に各社大きくは異ならないんだが……。なんでこうなるんだろう。面白いような不思議なような。

覚え書き

  • 子育てに唯一の正解はない。同じ誰かにとって、AでもBでもZでも、αでも1でもおおむねうまくいくだろう、ということはしばしばある。
  • 明らかな間違いというものはありそうには思うが、ある誰かにとっては「明らかな間違い」であることが別の誰かにとっては「全然間違ってない」場合もある。
  • 頭で考えて子育てするのは大事なことだが、頭で子育てして行き詰まったら、頭を使わないところに立ち戻ることも大事。
  • なにしろ相手は人間なので、他人が自分の思うようにならないと同様、まるっきり思うようになどならない。子どもがどういう人間になるかは複合要因なので、結果だけを見て子育てがうまくいったかいかないかを気にしてもあまり意味はない。
  • よそはよそ。うちはうち。あのひとはあのひと。わたしはわたし。
  • 自分の感覚を育てよう。自分の感覚も信じるに足る支えとできるように。

雄鶏社の自己破産

この週末、驚いたニュースは、やっぱりこれ。
新文化-出版業界紙-ニュースフラッシュ 雄鶏社、4月17日東京地裁に自己破産を申請
雄鶏社は女性向け実用書の出版社で、歴史もかなりあるので、冗談でなく、子どものころからお世話になった。というより、今は日本ヴォーグ社なども大手だけど、昔はあまりそういう印象じゃなくて、めぼしい手芸本買うとたいてい雄鶏社だったりして。特に若いころレース編みに一時期ハマっていたから、買う本買う本、雄鶏社だったりした。
出版社で選んで本を買うことはないけど、最近でも、あ、これいいな、欲しいなと思ってひょっと買った本が雄鶏社だったりということはままあり、本棚を見るとかなり雄鶏社の本があって、あれ、これも? こっちも? という感じ。先月も2冊ほど、迷った末に買ったばかり。
今思えば、買っておいてよかったなあ。まさか1ヶ月もたたずにこんなことになるとは思いもしなかった。


最初に噂を見たのは土曜の2chのハンドクラフト板で、「有名なハンクラ作家さんや出版関係者のブログで、雄鶏社倒産の話が出ている!」というもの。土曜なので経済関係ニュースは停止していて、ソースは出ない。しかし、話を出しているハンクラ作家さんたちも有名な人だし、公式のブログで書いていて、ガセをそうそう流すような人ではない。
どうも本当っぽいね……という雰囲気の中、上記のニュースが出て、確定した。


さらにこの話題には前哨戦がある。
同じくハンクラ板の刺繍スレにて、「はじめてのドロンワーク」という本の話題がすこし前に出ていた。ドロンワークの基礎的な本、ということで期待されていたのだが、雄鶏社の4月新刊に出ていたこの本が、なかなか書店に出ない。それどころか、他の4月の新刊もすべて、いつまでたっても書店に並ばないし、サイトの新着情報の更新も行われなくて、本の詳細や発売日の掲載も行われない。どうなってるんだろう、早く見てみたいのに……という話題の出る中、今回の倒産となった。
4月新刊の中には、本を作った方が自身のブログに表紙写真を掲載しているものもあって、もう刷り上がっていたのに、という状況で日の目を見ずに消えていく本もあったよう。残念だろうな。


今は、各書店から雄鶏社の本が消えていく話や、その前にほしかった本を買いにいかなくちゃ、ネット書店なら在庫返品しないから間に合うぞ、とりあえず書店に走るぞ、ってな話になっている。
もともと手芸本は絶版が早く、これだ、と思う本があったら一期一会と思え、というのが原則だけど、やはりお財布の中身とも相談しなくちゃだし、この作品はいいけど他のページはいらんな……という場合もあったりして、そうそう即決できるものでもない。


ニュースによれば自己破産ということで、倒産という話だけのときは、民事再生法会社更生法の申請だったらいいけど、と思っていた希望もくずれた。もう雄鶏社の新刊本を手にとることはないんだな。


【追記】(2009.4.22)
その後判明してきた話として、4月新刊10冊のうち、2冊は発行済みで書店にも並んだ実績があることがわかったが、他の8冊はどうも出版されないままお蔵入りになったもよう。

【追記2】(2009.4.23)
さらにその後、他にも出荷されてなんとか店頭に並んだ4月新刊があることがわかってきた。上記で話題になっていた「はじめてのドロンワーク」も、店数は少ないながら、店頭に並んだケースもあるもよう。でも、結局出荷に至らなかったと思われる本もやはりいくつかあるもよう。

「はる」の間の抜けっぷり

春たけなわ。
なんとなく、ああそろそろ春だな春の気配だな、と思うと「ああ、春だなぁ」とつい口に出して言ってしまう癖がある。夏や秋や冬は「ああ夏(秋・冬)だねぇ」とあまり言わないのだけど。
思えば、気温もほんわりとゆるんできて、陽光がぽかぽかとして、体にあたる風もぬくんでくると、なんとなく口もゆるくなりたくなるようで。特に、そんなほわ〜〜な気分のときに「はる」と口に出して言うと、ますますゆるい気分になれる。
「はる」の「は」の子音、hの間の抜け具合がゆるい気分にぴったりなのだ。らさにそのあとの母音がiでもuでもなくaなので、さらに間抜け気分倍増。「は〜」と、温泉に入って「は〜、極楽極楽」と溜め息をつくときみたいに言うと、もうそれだけで極楽な感じ。それに続けて「る」と言うと、「るんるん♪」の「る」のように楽しい音になる。
してみると、「はる」という語感はよくできている。なんだか実に春っぽい。


「なつ」は、nの粘着質な語感が、高温多湿な日本の夏っぽい。
「あき」は、「き」のkに枯れ葉を踏むようなカサカサとした雰囲気がある。
「ふゆ」は、2つの母音uがいかにも寒くて口を開けたくない、そして冷たい北風の吹く冬という感じ。
しかし、どれも、「はる」の秀逸さにはかなわないなあ。
門外漢だからよくは知らないけれど、「はるなつあきふゆ」はやまとことばだから、「春夏秋冬」よりは古くから日本にあって、昔の日本人が四季の移り変わりを感じながら、この時期は「はる」、この時期は「なつ」と呼ぶようになったのだろう。
春に「はる」と名前をつけた人はすごい。冬に「ふゆ」とつけた人と同じくらいすごい。


春になって、すこしだけ新しい生活が始まった。
パートではあるが、仕事に戻った。8年近くもブランクがあると、なかなか頭も体もついていかない。それでも、1回目の出勤よりは2回目の出勤のほうが、明らかに自分も慣れてきている。ゼロからの再出発ではない、過去にやってきたことは埋もれてはいるけれどちゃんと蓄積されていた、と、確認できた。
これから、ぼちぼちと。